◎海峡を越えて(小説版)青函連絡船編 短編集3
憧憬
夕刻の青森港には、穏やかな風が吹いていた。松前丸は柵にもたれかかると、煙草を取り出して火を点けた。
紫煙が細く立ち昇る。
「松前!」
横目で見ると、姉妹船の津輕丸がこちらに向かって早足で近づいてくるところだった。
「何の用だ」
「静を見なかったか?私はもうすぐ出航なんだが、どうも見付からなくて……」
「知らん。探し回るより波止場で待っていた方がいいんじゃないか」
「相変わらずつれないなあ」
彼女は苦笑しながら手を伸ばした。
「松前、私にも1本くれないか」
「……ヤニ臭くなるぞ。おまえが毎夜毎夜遊んでいる姐さんたちが嫌がるんじゃないか」
「またそんなことを言う。ハッカ飴を舐めておくから大丈夫さ」
無言で朝日の箱を差し出すと、綺麗に整えられた爪が紙巻を抜き取った。
「火。貸して」
ああ、この笑顔には咎める気も失せてしまう。
煙が二筋、暗くなっていく空に消えていった。
松前丸は津輕丸が立ち去った後も、ぼんやりと水平線を眺めていた。
「……?」
急に風が冷たくなった。顔を上げると、そこに補助汽船の静丸が立っていた。
(コイツは苦手だ。変なところで絡んでくるし、よく分からないところで声を掛けてくる。津輕はどうして上手くやっているんだ)
「静。津輕が探していたぞ。」
彼女は答えずに、しばらく視線を逸らしていたが、ふいに口火を切った。
「ねえ。男女の双子は心中した恋人の生まれ変わりだというのは本当かしら。」
「なんのことだ」
「あなたと津輕のことよ」
口の端に冷たい笑みを浮かべて、年嵩の補助汽船は続けた。
「絶対に手が届かないものだから、安心して憧れているのね。可哀そうなひと」
「……」
「そんな目で見るのね」
静丸は声を立てて笑った。
「あなたがもがく様子を見ていると、とても面白いの。何故かしら」
その様は実に楽しそうで。歯ぎしりが出そうなほど憎たらしいのに、喉につかえて何も声が出てこない。
それはきっと。誰にも言えない心の内を、読み取られているからなのだろう。
「大丈夫よ。津輕には何も言わないわ。その方がずっと愉快だもの」
伸びてきた手を乱暴に払って、松前丸はやっとのことで言葉を絞り出した。
「趣味が悪いな」
ニカリ、最後に狐のような笑みを漏らすと、彼女は音も無く立ち去った。
静丸の姿が全く見えなくなったのを確かめて、松前丸は大きく息を吐いた。
あの口ぶりからすると、彼女が何事か姉に言うことは無いだろう。兄たちや他の船に言うことも。
それだけは信用できる。本当に質が悪いことだが。
それがただの憧憬なのか、慕情なのかは自分でも分からない。……分からない、と思いたいだけなのかもしれない。
……とはいえ。自分にとって、姉は姉のままであってほしい。この松前丸の、きょうだいぶねでいてほしいと思う。
心の底から願っている。
だから言わない。絶対に言わない。……否、言えない。
すっかり暗くなった埠頭の隅で、小さく煙草の灯が点った。
薄い煙は暮れの星空をチラチラと隠しながら、高く高く昇っていった。
曇天
今にも雨が降り出しそうなこんな曇天の昼間には、松前丸が現れる。
あの日と同じ服装で、同じような顔色の悪さで。
表情は読めない。こんな天気の日には廊下も薄暗くなっているから。
今日も背後に気配がして、振り返るとそこにいた。
「おまえは死んだはずだ松前丸」
おまじないのように、呪いのように、呟くのがお決まりのルーティンで。
「俺が殺した」
「何をぶつぶつ言っているんだ、六郎」
「……宗谷丸」
大柄な砕氷船に呼び止められて、第六青函丸は夢から醒めたように目を瞬かせた。相手は怪訝そうな顔をして、こちらを眺め回している。
「物騒な言葉が聞こえたような気がしたんだが。大丈夫か」
「……大丈夫も何も、」
肩をすくめて少しだけ笑ってみせる。
「俺は野内沖で座礁中だ。復帰できるかは分からない。……少しあたまのネジが緩んでいてもおかしくはないだろう」
「消えていないということは、可能性があるということなんでないか。現におまえは青森や函館を自由に動けるだろう」
どうだろう。それは、そうなのかもしれないが。
「……僕は亞庭には、会えなかったからな」
宗谷丸が付け足した一言に、ギクリとした。口元まで出かけた皮肉が、喉の奥に絡まって止まった。彼の僚船の亞庭丸は、青函航路に転属したままで、空襲によって沈没し還らなかったのだ。
「そういえば、松前丸はどうだったんだ。七重浜に座礁したと聞いているが」
「松前は……」
『撃ってくれ』
あたまの中で声が鳴り響いた。あの日あの時、あの選択をしたことは。
……あれでよかったのか、とずっと問い続けている。彼がいなくなってから、ずっと。
気まずい沈黙が流れた。
「……悪い」
静けさに耐えかねたように、宗谷丸が呟いた。
「なんで謝るんだ」
「訊くべきでないことを、訊いてしまったと思ったから」
この砕氷船は、性根が優しいのだろう。そんなところも、あのふねを思い起こさせるようで、心にヤスリを立ててくる。
「謝るなよ。おまえは何も悪くない」
それだけ言って、場を離れた。松前丸の言葉と、自分が宗谷丸に吐こうとした言葉とが、耳の中で跳ね返って反響して、ガンガンと叩かれるようだ。
彼は悪くない。悪くない。……では、自分は?
背後に気配がした。
振り返れば、きっとまた、松前丸がいるのだろう。
「……なんで俺なんだ」
呟いた。今日はもう、確かめなくていい。きっと彼は、幾度だって出てくるだろうから。
自分の罪は、知っている。