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​◎海峡を越えて(小説版)
​埋火は朱く

「君の方から五稜郭までわざわざ来ることは珍しいですね、北斗星。」

ED79は手元の資料の端を揃えてクリップでまとめ、封筒に入れて相手に差し出した。

「こちら、ダイヤ改正後の資料です。」

「ありがとう。定期運行がもうすぐ終わるからね、こんなに毎日騒がしいのは。少しは気晴らしに散歩しても、罰は当たらないわ。」

寝台特急北斗星は封筒を受け取ると、中身を確認して「これで充分、」と言った。

「夏までは走っているのよ?焦る理由が分からないわ。騒がしいのは弟だけでいいのに。」

「お疲れ様です。」

ED79は苦笑いで答えた。来年3月には北海道新幹線が開通する。青函トンネルは新幹線を

走行させるために区間の電圧を上げると決まっている。それはつまり、現在青函を結んで

いる電車の大部分が走行できなくなるということだ。北斗星はこれに先立ち、3月13日には

定期運行が終了することになっており、さらに8月の引退が決定していた。沿線と駅には連日多くのファンが詰めかけている。ちょっとしたお祭り騒ぎだ。

「まあ、あなたもお疲れ様だわ。」

北斗星は冷えてしまった紅茶に手を伸ばした。

「すみません、新しいものを淹れてきます。」

「結構よ。…ところで、ちょっと訊きたいのだけれど。」

カップがコトン、と受け皿に置かれた。

「あなた、はまなすとはどうなってるの?」

「…はい?」

予想外の質問に、立ちすくむ。北斗星はすました顔で、紅茶に角砂糖を2つ、落とした。

「だからはまなすよ。すこしは進展して?」

「……」

「今更白を切る気も無いと思うけれど、まあ言っておくわ。バレバレよ。」

顔が熱くなるのが分かった。隠していたつもりはない、言わなかっただけだ。

それでも、周囲の車両には分かっていたのか。

「とっとと思いの丈をぶちまけてしまいなさいよ。もどかしいったらありゃしないわ。」

「ひとの恋路に口を挟まないでくださいよ…。」

「挟むわよ。あなた、来年には廃車よ?分かっていて?」

そんなことは言われるまでもなく知っている。

だからこそ、…だからこそ、踏み出すことが出来ずにいるのに。

そうでなくても、目下のところED79ははまなすとちょっと気まずいのだ。

 

本当に月が綺麗な晩だったのだ。

天頂近くに満ちた月が昇っていて、周りに星々が散らばっていて。

トンネルを抜けた先に、あまりにも美しい夜空が広がっていたから。

何も考えずに、ただただ純真な気持ちでこう言った。

「月が綺麗ですね。」と。

言ってしまってから、気が付いて、全身が熱くなった。

はまなすはしばらく黙って空を見上げていたが、ポツンと、

「おまえも漱石を読むのか。」

と言った。

(…気付かれた。)

「…著作は一通り。」

「ほう。」

彼女はその言葉を反芻するように頷くと、視線を切って、一歩前に出た。

「なら、これは分かるな?『しかし…しかし君、恋は罪悪ですよ。わかりますか。』」

(…それは。)

「『こゝろ』の、先生の言葉ですね。」

「そうだ。」

こちらを振り返ったはまなすの瞳には、何故か星も月も映っていなくて。

背筋が寒くなるような、闇が広がっていた。

「この台詞、一度言ってみたかったんだな。」

次の言葉で、ただの悪戯っぽい光を湛えた色に変わってしまったけれど。

僕はそのあと彼女をまともに見ることができなかった。

 

***

 

「…それで、無意識に告白してフラれたみたいになっちゃってると?馬鹿なの?」

函館駅の旅客車両控室で、海峡が呆れたように呟いた。

「あなた、五稜郭に留置されている割にはよくここまで来るわね…まああの子は馬鹿ね。」

北斗星はため息を吐いて、横目で特急北斗を見た。

「お嬢、一応海峡は救援車として函館にも車両が在籍してるから、ここにいてもおかしくは

 ないぞ。…それはともかく、周りの我々としては、もどかしくて仕方ないな。」

北斗はキハ40の焼いた餅に砂糖をまぶし、醤油を振りかけた。

「あいつ、来年には引退・廃車だろ?何やってるんだ、ホント。」

「はまなすもはまなすだべさ。」

キハ40もため息を吐きながら、ストーブの上に並べた餅を引っ繰り返した。

「そんな台詞で返すのは、人が悪いべ。」

「はまなすは肝心なところで線を引くのよね…。」

「その辺りの事情はお嬢や海峡の方が良く知ってるだろ。」

北斗に追及されて、海峡の目が泳ぐ。どうしたものかな、とぼやきつつ、海峡は過去話に

踏み込むことを決めたようだった。

「津軽丸はそれはそれはモテたさ、きな臭い時代だったし本人も真面目だったから派手に

 遊んだりはしていなかったけれどね。結局45年の7月に空襲で皆やられて、俺と津軽丸、

 四郎、六郎が戻ってきた。戻ってきた連中は俺を含めて、大かれ少なかれ引きずっている

 ものがある。」

海峡の瞳が憂いを帯びた。じわじわと髪の毛の端から色が濃くなっていく。数秒で青かった頭は、漆黒へと変化した。

「沈んだのは多分罰だ、俺らは戦争に参加していたんだからな。」

「でも、お前らは鉄道省の所属だろ?戦時体制を受けて、軍属になったんじゃなかったか。」

北斗が怪訝そうに聞く。海峡の瞳は、一層暗くなった。

「石油の輸入が難しくなって石炭への燃料の転換が起きたんだよ、俺らの最大の使命は石炭を

 本土へ輸送することだった。総トン数1000以上だったから、武装もしていた。」

「それに、俺らは結局乗客も乗員も死なせてしまった。」

部屋が静まり返った。ストーブのジジ、という音が、やけに大きく聞こえた。

「人数の大小が問題なんじゃない、それはそうだ。それでも津軽丸の死者は多かった。」

「だから、北見丸の時も…ずっと引きずっていた。ようよう笑えるようになったころに、

 今度は台風で沈んだ。乗組員のほぼ全てを巻き添えにしてだ。」

ため息をこぼす。

「この辺の機微は分からなくていいよ、分からない方がいいよ、少なくとも俺はそう思う。

だから俺らはそれを外に出さないようにしている。はまなすは…隠すのが上手いな。」

「踏み込ませたくないんだ、こんな重いものを背負わせたくないから。だから線を引く。」

北斗星がそうね、と呟いた。

「北見丸は、まだ分かりやすかったわね。」

「この意識に終わりはないよ、それでも俺は、はまなすが救われることを願ってる。」

「ED79には荷が重すぎやしないかね?」

キハ40が首を傾げて言う。

「あいつは強くなったよ、今のあいつなら大丈夫だ…まあ、その手前で迷ってる様子だけどな。」

「迷ってる場合じゃないって蹴飛ばしてやりたいわ。」

「やめたげてお嬢。」

「こればっかりは本人の問題だべお嬢。」

北斗とキハ40が口々に言う。北斗星はちょっと怒った顔で、

「分かったわよ…でも約束はしないわ。」

と言った。海峡は笑った。

「まあ、あと1年だ、適当に背中を押しつつ見守ろうとしましょうかね。」

 

***

 

「本当にあなたってお馬鹿さんね、まあ頑張りなさいな。」

北斗星は立ち上がると、扉に手を掛けた。

「一つだけ、お姉さんから忠告よ。はまなすは嘘を吐くのが上手いから、気をつけなさい。」

「どういうことです…?」

「周りだけでなく、自分にも嘘を吐くの。無理をしていても、絶対に表に出そうとしないの

 よ。あなた、分かっていて?」

「そんなに」

無理をしているようには見えなかった。

「それが駄目なところね。いいこと?北見丸には苦手なものがいくつかあったわ。」

「あった?」

「私ははまなすになってからの北見丸とは、あなたや海峡ほど親しくないもの。でもきっと、

 今も苦手ね。例えば火の粉。例えば火災。例えば目の前でひとを失うこと。」

北斗星は続けた。

「知らない?まあ、はまなすはあなたには特に何も見せないようにしているから、仕方ない

 わね。でも、それでは駄目よ?」

「…はい。」

「無理をさせては駄目。」

「…気を付けます。」

北斗星は最後にED79を一瞥すると、風のように扉を揺らして出ていった。

 

「ED79!」

物思いにふけっていたED79は、扉が乱暴に開けられる音とともに現実へ引き戻された。

「どうしたんです、EH500…」

「たった今連絡が入りました。函館発新青森行きの特急スーパー白鳥34号で発煙です。」

「白鳥は竜飛定点から青森側1.2 kmのところに停車しています。」

「おそらく乗客は定点から避難させ、函館まで当該車両を牽引するのではないかと…。」

「ED79、すぐに函館へ向かってください。DD10が待っています。」

「ありがとうございます!」

飛び出した。

津軽海峡線が開業してから27年、定点からの避難など、前代未聞のことだ。

前代未聞の、事故。

姐さん姐さんとはまなすにくっついて回っていた白鳥の、明るい笑顔が脳裏を過ぎる。

縁起でもない。

DD10は事務室で待ち構えていて、机の上に分厚いファイルをいくつも広げていた。

「来たか、ED79。」

「来る間も無線は入れていましたが…やはり定点からの避難になりそうですね。」

「不幸中の幸いで、竜飛のすぐ近くで停まったからな。全く…。」

「青森側ではなく、函館側への牽引ですか。」

「救援列車は俺だ。青森側へ抜けるとなると、運転方向が逆になる。信号設備が利用できね

 え。乗客を竜飛から出すなら函館側に動かした方がいいな。」

青函トンネルの縦断図を広げ、現在位置と避難ルート、牽引方向を大きく記す。

「トンネル内に待避線はねえ。俺が白鳥を牽引してくる間、動かせるのは下り線だけだ。」

「………まあ、なんとかします。」

初期消火は既に終わっているとのことだったが。

「まずは青森と東青森、札幌に現状を連絡します。」

「そうしてくれ。」

時刻は17:20。長い長い1日はまだ終わりそうになかった。

 

***

 

あまり心配をかけてくれるな、とはまなすは言った。

日はとっくに落ちて、ホームの端は暗闇に包まれている。

結局白鳥はDD10に牽かれて函館駅に戻ってきた。青函トンネルを出た時点でトンネル内の

上下線の機能が回復したため、ED79は調整に追われていた。白鳥とDD10が再び姿を現した

時には、青函両岸の全員がグッタリと疲れていた。

足を少しだけ引きずってはいるものの、白鳥は思っていたより元気そうだった。

「皆さん、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。」

「モータ配線が焦げ付いたんだって?」

「ええと、詳細は調査中ですが…主変換装置がパルスセンサを認識できなくなったことが

 原因のようで。」

「お客様は竜飛記念館で待機中?」

「はい。誘導自体は20時過ぎから行いまして、…待っていただいている状況です。」

白鳥は少ししょぼくれた。

「白鳥。」

背後から、はまなすの声が聞こえた。

「姐さん。」

白鳥の顔が一瞬嬉しそうに輝いた。

「来てくださったんですか、姐さん。」

はまなすはひとの層を抜けて、一歩前へ出た。

白鳥はちょっとしょぼくれた顔になった。叱られると、思ったのかもしれない。

「おまえが戻ってきてくれてよかった、白鳥。」

「姐さん…。」

「あまり心配をかけてくれるな。」

「…ごめんなさい。」

「泣くな。泣くのは全部後始末が終わってからだ。」

はまなすは白鳥の額を一回小突くと、立ち上がって手を差し出した。

 

青函フェリーの汽笛が、微かに聞こえる。

はまなすはため息を吐いた。

「いったん引き上げるぞ。白鳥、事故報告の前に顔くらい洗いたいだろう。」

「ありがとうございます、姐さん。」

はまなすが早足で歩き始めたので、ED79は慌てて後を追った。

「…?」

違和感を覚えて、ED79は一瞬立ち止まった。先を行くはまなすは、普段と何も変わらないように思える。思える、のだけれど。

「はまなす?」

「なんだ?」

本当に何でもない、のだろうか。

髪の先端が黒みを帯びているような。

「大丈夫ですか?なんだか、髪が黒くなっているような…」

はまなすは立ち止まった。光の加減か、髪がチカチカと光って、ハッキリと色が分からない。

(気のせい…?でも、さっき確かに黒く…)

小走りで並ぼうとして。

多分、彼女は何か言おうとしたのだと思うけれど。

「はまなす!」

崩れ落ちてきた彼女を受け止めることしかできなくて。

後ろから白鳥が駆けてくる音が、やけに大きく聞こえた。

 

何でもない、と言おうとした。振り返って、何を見ている馬鹿、さっさと行くぞと。

笑って言おうとしたのに。

(…まずい、これは)

世界がぐらりと揺れた。

視界いっぱいにあの日の炎が映る。

今の今まで大丈夫だと思っていた、けれど。

「はまなす!」

なんでそんなに泣きそうな顔をしているんだ、馬鹿。

これは罰だ、今まで本当に楽しくて、…楽しすぎたから。

…全部私が悪いのだ。

 

***

 

いい音がした。

ED79は他人事のように、ぼんやりと思った。

場所は函館駅、夜行急行はまなすの居室である。函館駅8番ホームで倒れたはまなすは、ここに運ばれたのだった。先ほどまで付き添っていた白鳥は、事故報告のために呼び出されて出ていった。入れ替わりに入ってきた北斗星は、はまなすの状態を確認するなり無言で近づいてきて…そう、ED79は殴られたのだった。

「理由は分かるわよね?それほどあなたが馬鹿ではないと思いたいわ。」

「…はい。」

「謝るのは私ではなくてよ。直接はまなすに言いなさい。」

「はい。」

難しい顔をして座っていた海峡は、北斗星がもう一度腕を固めたのを見て、慌てて止めに

入った。…間に合わなかったが。

「おい北斗星、やりすぎだ。」

「さっきのははまなすの分、今のは私の分よ。」

「完全に憂さ晴らしじゃないか…」

「ええ、このひとがあまりにも朴念仁だから、イライラしたの。ごめんなさいね。」

「……。」

海峡は頭を抱えた。

「なんかごめんな…。」

「いえ、僕が悪いので…。」

「しかし、」

と、海峡は強引に話を切り替えた。

「津軽丸の根がここまで深いとはな。」

「ええ、考えていたよりもずっと深かったわ。駄目ね、私の目は節穴だわ。」

北斗星は肩を落とした。横目でキッとED79を睨む。

「北斗星。」

「あなたを責めてもどうにもならないのにね。私、ちょっと頭を冷やしてくるわ。」

バタン、と扉が閉まった。

「ED79、追い掛けろ。」

「…北斗星を、ですよね?」

「他に誰がいるんだよ。これ以上荒れさせるのは危険だ、連れ戻してこい。」

 

北斗星は、青函連絡船摩周丸のそばに立って、満ちた月を見上げていた。

一月前と同じ、満月。

胸の奥が、ズキリと痛む。

「話しかけないでちょうだい、私、今、荒れているんだから。」

「……。」

ED79は近くのベンチに腰掛けると、黙って月を眺めることにした。

半時ほど経って、北斗星は同じベンチの反対側の端に腰を下ろした。

「…馬鹿みたいね、私。」

「たぶんこの件に関しては、みんな馬鹿なんですよ…。」

「あなた、フォローも下手ね。」

「すみません…。」

北斗星はまた黙った。雲が月の前を横切った。

「私、北見丸が好きだったのよ。」

唐突に北斗星が口を切った。

「強い北見丸も、時折見せる陰も、全部好きだった。北見丸がはまなすになっていると

 知ったときは、嬉しかったわ。」

「でも、駄目ね。線を越えられなかったわ。」

月明かりに涙が光った。

「いいわ、あげる。この気持ちは私のものだけれど、はまなすはあなたにあげるわ。」

「……。」

「やっぱり、あなたってお馬鹿さんね。」

北斗星は笑った。

 

翌朝。はまなすが目を覚ましたと、白鳥の口から知らせを聞いた。

姐さんが倒れたのは私のせいですねごめんなさいとしょぼくれる白鳥をなだめながらも、

自分はどんな顔をして会いに行けばいいのか、ED79には分からなかった。

 

***

 

貨物の引継ぎを終わらせて五稜郭の居室へ戻ってきたED79は、白衣を羽織り、眼鏡を掛けた海峡が椅子に座っているのを見てむせ返った。

「はい、海峡先生のメンタルクリニックです。」

「ええ…。」

「引くなよ、俺は真面目なんだからな。」

「はあ…。」

ED79は折りたたみ椅子を引き出すと、それに腰かけて海峡を仰ぎ見た。

「で、どういうことでしょう。」

「好きなんだろ。」

海峡は単刀直入に言った。

「おまえ、好きで好きでたまらないんだろ。はまなすのことが。」

「……。」

「なんで言えない?」

海峡は机に頬杖をつく。髪が一筋、ばらけて額に落ちた。

駄目だ、声に出したら。

終わってしまうのに。

「…怖いんです。」

言葉が止められない。

「僕はひとに依存することが怖いんです。」

「それは、…あー…ED75とかその辺の関係かな。」

海峡が頷く。

分かっていない。

海峡は、ED79の本質について半分しか分かっていないのだ。

「違います、僕は…依存気質なんです。」

「たぶんはまなすは断らない、でも僕はきっとはまなすに依存してしまう」

「兄と同じように、何もかもが欲しくなる。」

「それは…はまなすには負担だ。」

海峡の目を見ることができない。怖くて、それでも言葉はつらつらと口から紡がれていく。

「結局のところ、兄と僕の本質は変わらないのです。」

「だから、」

「ED79。」

名前を呼ばれた。顔を上げると、真面目な顔の海峡がそこにいた。

「確かにお前は自分のことでいっぱいいっぱいの馬鹿野郎だよ。」

「…はい。」

「でも俺は、そこからお前が踏み出せると信じてる。」

「そう、でしょうか。」

そう言ってくれるのはうれしいけれど、だけれど。

「ばーか。」

海峡は眼鏡をクイっと上げた。

「何にも依存しないやつなんかいねえよ。欲望なんてキリがないだろうよ。」

「おまえはいつだって怖がり過ぎなんだ、ED79。ぶつかりもせずに砕け散ってどうする。」

「ウチのはまなすはNOと言える人材ですぞ?というかおまえ、兄貴だって多少はコントロー

 ルできてるだろうが、自分の心の舵取りくらいはできるようになりやがれ。」

「舵取りが難しかったら、助けてやるからさ。」

そこまでキッチリ言い切って、海峡はプイっと横を向いた。

ああ、なんだか。

迷っていたのが、本当に馬鹿みたいだ。

「そこまでズケズケ言うなんて、先生失格ですよ。」

「個人個人に対応していると言え、失礼だな。」

ふくれっ面で、相手は眼鏡を外すと、白衣の胸ポケットにしまい込んだ。

 

迷いは消えた。

「走れ。」

と、海峡は言った。

「多分はまなすは入線前の車両にいるぞ。…座席車だな、あいつは昔から」

「「夕闇を見るのが好きだから。」」

声が重なった。海峡はニヤッと笑って、分かってるじゃないかと指を振った。

「行けるな?犬っこ。」

「はい。」

「礼は言わなくていいぞ?」

「僕が言いたいんです。」

ED79は言った。

「ありがとう、海峡。」

「お大事に。」

扉に手を掛ける。肌を刺す冷気がなぜか、自分を後押ししてくれているような気がした。

青森まで、2時間と少し。

傾きかけた日が姿を消す前に…君に会いに行こう。

 

走った。

走って走って駅に辿り着いた頃には、日は沈んでいて、微かに残り日が空を漂っていた。

入線前の車両がどこにいるのか、座席車が何号車なのかは、頭に入っている。

なにせ、27年間ずっと一緒にいたのだから。

スハフ14系のドアは、いつもよりずっと軽かった。

「ああ、おまえか。」

窓際の席に、はまなすがいた。

「心配せずとも、入線時刻にはそちらへ行くぞ?そんなに焦らなくても」

「好きです。」

言った。

「あなたのことが好きなんです、はまなす。」

はまなすは目をぱちくりさせた。

「僕は自分のことでいっぱいで、ずっと今まで寄りかかってばかりいて、本当にダメなやつ

 で…それでも、あなたの支えになりたいんです。」

「あなたの悲しみを、苦しみを、嘆きを、怒りを、僕に分けてください。どうか、お願いだ

 から、独りで抱え込まないでください。」

「……。」

「分かっている、僕は来年には消えなければならない。またあなたに寂しい思いをさせて

 しまう。辛い思いをさせてしまう。だから本当に、これは僕の勝手な想いなんです。」

「それでも、僕はあなたのことが好きだ。好きでいたいんだ。」

はまなすは苦笑いで額を叩いた。

「海峡…それと北斗星か?全く余計な真似をして…」

「ただ、伝えたかった、それだけです。」

本当に、ただ、それだけで。

あなたが僕のことをどう思っていたとしても、関係なくて。

ただ朱く、心に埋火は燃え続けるのだ。

クク、と笑い声が聞こえた。

はまなすが笑っているのだった。

ひとしきり笑い終わると、はまなすは目尻に浮かんだ涙をぬぐって、顔を上げた。

「ばーか。」

「…ええ、馬鹿です、僕は。」

「遅すぎる、遅いよ、馬鹿。」

「ごめんなさい。」

「私の過去は重いぞ?重すぎて潰れるかもしれないぞ?それでもいいのか?」

「僕、受け流すことも得意になりましたよ。」

「…そうか。」

潰れるだけが選択肢じゃない。そうでしょう。

それを、あなたたちは、あなたは教えてくれた。

「おいで。」

はまなすは笑う。僕の一番好きな表情で。

 

初めてのキスは、涙の味がした。

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